芦屋の地層にふれてふるえる

芦屋の地層にふれてふるえる

2023年4月、兵庫県芦屋市の阪急芦屋川駅周辺をウロウロしました。

せっつめいしょずえ

案内人は、芦屋市役所で学芸員をされている竹村さん。部署は違えど私の先輩で、いろいろな芦屋の歴史を教えてくれます。竹村さんの専門は考古学、芦屋は旧石器時代(約2万年前)から連綿と人が住んでいた場所で、宅地開発などで掘ると「何か」出ます。今回まち歩きする阪急周辺の山手エリアも、いくつかの遺跡が発掘されており、昔からよく調査で訪れている場所だそうです。そしてこの日は「摂津名所図会(せっつめいしょずえ)」を手がかりに歩いてみようという試みだそうで…。「摂津名所図会」とは江戸時代に作成された名所を紹介する本の摂津国編。今で言うと「歩いて楽しむ観光マップ大阪・神戸」といった感じのものだそうです。それにしても口に出したくなる名前「せっつめいしょずえ」。

「摂津名所図会」両岸に松が繁る芦屋川、東西に伸びる西国街道などが描かれています。よく見ると歩く人が様々な農具などを持っていたり、ディティールがおもしろい。

戦前の富豪たちの美意識

集合場所の阪急芦屋川駅から山手に向かいます。この周辺は芦屋がまだ田畑が広がる農村だったころから人が住んでいた、山芦屋という集落だったところです。高級住宅地として有名な芦屋らしく、さっそく立派なお屋敷がちらほら目につきますが、キラキラとした豪邸といよりは、重厚な邸宅といった印象を受けます。古い集落をとり囲む形で、阪神間に鉄道が通り宅地化が始まった明治末期〜昭和初期に開発されたエリアなので、その時代の富豪たちの美意識が反映されているのかもしれません。

すごい石垣。石が飛び出すように立体的に積むのがイケてるらしいです。石垣の上にさらに塀囲みがあるのもイカつくてかっこいい。
山手にある西山幼稚園には、元の邸宅の板塀が残されています。よく見ると現代で使われている洋釘ではなく、和釘が一部に残っていると竹村さんが解説してくれました。

しばらく坂を上り滴翠(てきすい)美術館を訪れました。本来なら駅徒歩10分ほどの場所ですが、この日はたどり着くまでに、石垣や著名な建築家が設計したお宅などに興奮して30分以上かかっております。滴翠美術館は昭和初期に山口銀行の頭取をしていた(お金持ちってことですね)山口吉郎兵衛さんの邸宅だった建物で、和洋折衷の名建築として「関西モダニズム建築20選」や「ひょうごの近代住宅100選」にも選ばれています。まず、外観の他では見たことがない、凝ったデザインに目をひかれます。さらに中に入ると、床・窓・天井などの内装には、様々な部材とデザインが場所によって使い分けられています。職人さん達が、施主のリクエストに応え、いかに手間隙かけてリッチな空間をつくるかを追求したかが、実物に触れることでひしひしと伝わってきました。「はー」とか「へー」とか「すごー」とか心の声を漏らしながら室内を巡ります。この日は2階のバルコニーにも出ることができ、見晴らしと気候の良さも相まって、参加者一同気持ち良くなり雑談が弾みました。滴翠美術館は春と秋の年に2回の展示会の時しか入ることができませんが、タイミングが合えば是非訪れて欲しいです。

滴翠美術館入り口。柱のデザインは土蔵などに使われるなまこ壁をモチーフにしていそうです。
煙突の縁が瓦風の波型になっていてかわいい。
バルコニーからは対岸に建つフランク・ロイド・ライト設計の旧山邑家住宅(ヨドコウ迎賓館)の横顔を眺めることもできます。

かつて薬師堂、いまヴィンテージマンション

滴翠美術館で戦前のお金持ちの真髄みたいなものをたっぷり(予定時間をオーバーして)味わった後は、折り返して摂津名所図会に薬師堂として紹介されている場所を目指します。少し西に向かいつつ、坂を降りて行くと、緑色の塔屋がかわいいヴィンテージマンションが見えてきました。このマンションが建っている場所に、かつての薬師堂があったということです。この場所も、明治以降の宅地開発の中で、一度は邸宅(薬師堂は現在の芦屋神社の東に移されたとのこと)となり、その後1960年代に「芦屋アーバンライフ」というマンションが建てられました。この周囲はもともとの集落だっため、新しく開発された山手の宅地に比べて、それほど大きな敷地の家はないのですが、寺院という広い土地があったので、敷地の広い邸宅とその後のマンションが建てられたのでしょうね。

正面に見えるマンション「芦屋アーバンライフ」が次の目的地。存在感があります。
芦屋アーバンライフは根強いファンが多い「秀和レジデンス」というマンションシリーズの流れを汲むヴィンテージマンション。もこもこした白い塗り壁や、塀の波瓦、テラスのアイアンワークなどが特徴です。

マンションの北側の塀に沿って歩いていると、塀を掘り込んだ物置のようなスペースがありました。何も知らなければ、そのまま通り過ぎてしまうところですが、竹村さんがおもしろいポイントを解説してくれました。

塀に組み込まれた石の謎

堀り込まれた縁の3辺には石材が使われおり、その石材の端をよく見ると、大きなノミで穿ったような痕跡があります。実はこの痕跡は「矢穴」と呼ばれる石材を切り出す時に刻まれたもの。大阪城の建設時には芦屋も含めて、六甲山からたくさんの石材が石垣を築くために切り出され、大阪へ運ばれていきました。しかし、切り出したものの、途中で破棄された石材がその場に残されることもしばしばあったようです。こういった石垣になれなかった石材たちは「残念石」と呼ばれており、各所に点在しています。つまり、このマンションの塀には、そんな「残念石」が組み込まれているのです。マンション建設時にわざわざ残念石を選んで運んでくるとも思えないので、この塀自体が以前からあったものを使っているか、もしくは、邸宅時代の庭などに置かれていた残念石を転用したのか…。もはや本当の経緯はわかりませんが、わからないだけに妄想が広がります。

上辺の石材の下部に矢穴がはっきりと見えます。両サイドの石材もよくみると矢穴があることに気付きます。マンションの塀が遺跡になっている。
残念石の塀の横のお宅に目をやると塀と樹木の関係性がすごいことに。
さらに、そのお宅の前にスッキリとした書体ながら存在感のある「私道」の主張。この道角だけで情報量多くてパニックです。

さらに、マンション以前の邸宅の前の薬師堂のそれよりもさらに時代を遡って行くと、ここは「芦屋廃寺(はいじ)」と現在では呼ばれている飛鳥時代(7世紀)に建てられた古代寺院があった場所でもあり、当時はこの地方の政治の中心地だったいうことです。むむむ、情報量が多すぎて、よくわからなくなってきました!そんなちょっと複雑な場所の歴史を竹村さんから聞きながら、ぐるっと回ってマンションの南側へ。そこでさらに驚くことが。

マンション西側の南北に延びる直線の道。古い集落の中に、ここまで直線な道は不自然なので、芦屋廃寺の時代に意図的に造作された道=ここに古代寺院があった痕跡なのではという竹村さんの推察。
芦屋廃寺址の石碑、この後ろに写っている改築中の建物で事件?奇跡?が起こりました。

カジュアルに拾い上げられた

このまち歩きの時、芦屋廃寺址の敷地内にある住宅がちょうど改装工事中でした。そこで竹村さんが「ここも調査対象になるんですよ」と、工事のため掘られた地面に、芦屋廃寺時代の地層が見えていることを教えてくれました。へーそうなんですね、と露出した黒い地層に注目しながら話を聞いていると、おもむろに竹村さんがその地層の周辺に落ちている、瓦礫のようなものを手にとって、

「これが芦屋廃寺のあった飛鳥時代から奈良時代の土器や瓦の破片です。」

ここまでの竹村さんの一連の所作が滑らか過ぎて参加者一同意味が飲み込めず一瞬フリーズ。その後「え!それってそんなにカジュアルに拾い上げられるもんなんですか…?!」と驚きがざわざわっと広がっていきます。さ、さすが学芸員さん(すご過ぎる)。この芦屋廃寺址遺跡発掘事件は、ウロウロ〜カルにとって忘れられないハイライトになりました。

黒い方が瓦、白っぽい方が土器の欠片ということでした。私も触っておけば良かった。
地面が露出した断面のやや下部、黒っぽいところが飛鳥時代の地層だそうです。

山手サンモール商店街再訪

芦屋廃寺跡から東にちょっと歩くと、山手サンモール商店街の入り口があります。3年前のウロウロ〜カル(当時はこの名称はまだなかったですが)でも訪れた場所です。その時に良い塩梅の経年を感じさせるファサードを愛でた空き家が無くなっていたり、魚屋さんの隣が改装されてレンタルキッチンができていたり、トルコ料理屋さんの建物の横にむりくり増設した間口1メートルくらいのスペースで営業していたクレープと焼き鳥丼のお店、幸屋さん(めちゃめちゃおもしろいのでその時の記事を参照してください)が、建物の中にプチ移転してたり、数年の間でも変化していることに気がつきます。商店街の中でも老舗の和菓子屋、杵屋さんは芦屋が舞台の谷崎潤一郎の小説「細雪」にちなんだ「細雪物語」というお菓子が名物の1つ。なんとこの名前は谷崎潤一郎本人の許可を得て売り出したのだとか。

日替わりキッチン「STAGE」この日はカフェが営業されていました。
杵屋さんの細雪物語。阿闍梨餅系の食感でおいしいです。
この日はお休み(準備中?)だった幸屋さん。隣のトルコ料理屋さんとともにサンモール商店街のお馴染みのお店になってる気がします。

東芦屋の集落へ

サンモール商店街を抜け、芦屋川駅の東にかかる桜橋を渡って旧東芦屋の集落へ移動します。芦屋川は天井川なので橋を渡るために階段を登る必要があります。これは高低差好きとしてはポイントが高い(知らんがな)。そして桜橋という名前、よくありそうな名前なのでこれまで気に留めていませんでしたが、この近くには大正時代に「潮見桜」という観光名所として宣伝されるほどの名木があり、その桜にちなんで名付けられたとか(知らんかった!)。潮見桜は現在代替わりはしたものの、ここから少し北に上がった開森橋の近くに5代目が植えられています。橋を渡って坂を下ると、道の向かいに摂津名所図会に描かれた「猿丸家の墓」があります。

現在架かっている桜橋の隣に昭和13年の阪神大水害で流された先代の橋脚が残っています。そして当代の橋もよく見るとコンクリート製の橋脚の上に鉄製の部材で、建設当時よりも嵩上げがされていることがわかります。
この敷地の中がまさか猿丸家だけのお墓とはビックリです。

お墓が観光名所として描かれたのはちょっと不思議ですよね。竹村さんからは「もしかしたら、名所図会を作成したときに、お世話になったから載せたのかも知れませんね」と。なるほど、スポンサー的な意味合いがあったのかもしれません。猿丸家は、江戸時代には貯水池をつくり、明治以降も河川整備や宅地開発の中心となってきたまさに芦屋の名士なのです。その隣には前回の芦屋まち歩きの際にも立ち寄った、アーケード付きのツインズ長屋があります。ここに今回も立ち寄って、揚げパン屋さん「パイクとそら」でおやつタイム。人気店なので揚げパンはいくつかの種類が売り切れていましたが、私はなんとか季節限定のさくら揚げパンをいただくことができました。サクサクのパンの中に桜餅風の餡が美味しかったです。

ユニークなタイル装飾のアーケード部分や凝った装飾の戸袋が目を引きます。どういった経緯で建てられたか気になる。
アーケードが架かっているのに窓に庇があるのは何故か、長方形の枠には昔なにかがはめ込まれていたのかなど、よく見ると謎が出てきます。
パイクとそらではアイスクリームも美味しそうでした。また食べにこよう。

立体的地形×時間の積み重なりのかたち

ツインズ長屋から住宅地に入り、少し北東に進むと東芦屋緑地という公園があります。ここは元々個人の邸宅が寄付されたことによってできた公園。さすが芦屋です。花壇や樹木の手入れが綺麗にされており、庭園がそのまま残っている場所もありました。この辺りは、竹村さんもあまり馴染みがないとのことなので、特に目的地を作らずみんなでウロウロ探索してみることにしました。
立派なお宅の立ち並ぶ中を、良さそうな匂いのする方へスルスルと歩いていきます。ここも元々集落だった場所なので、昔からあったと思われる細い路地や階段、高低差を利用した水車利用の痕跡、いい具合にエイジングされた石垣や壁など、わずか30分くらいで立体的な地形と時間の積み重なりのかたちが次々と発見されて、ウロウロ〜カル的にとても豊かなひと時でした。

東芦屋緑地を上から眺めたところ。緑豊かです。
こんな路地を見つけたらもちろん行ってみます。初めて通る道はどこに出るのか分からないドキドキが最高ですよね。
このような階段も魅力的。短い距離でも手すりが付いている優しさも良いです。
石垣に埋め込まれている石臼を見つけました。かつて水車を動力として石臼で精米や製粉をしていた名残。緑の生え方がなんとなくラピュタで余生を過ごしている古代ロボット的な雰囲気です。
家の間を縫うような細い階段も見つけました。路地も階段も好きな私にとっては最高の二乗。芦屋最高なのでは…。
「眺めもいいし、これはたまらんぜ〜」と階段を降りて行く私の背中です。
四角い石垣の上に自然石の石垣がやや覆いかぶさっていることから、四角い石垣のほうが先に造られたことがわかります。(これも竹村さんから教えてもらいました)
地域の方による共同のお庭のようなスペースがありました。
「ご自由にごらんください」に「24時間」がついているがおもしろい。真夜中でもOKだと。

ウロウロ〜カルとしては3年ぶり2回目の芦屋、前回と比べて狭い範囲でしたが、案内してもらった竹村さんの知識の豊富さに参加したメンバーそれぞれの視点が加わり、まちを深掘りながら歩いたあっという間の3時間半でした。まさか本当に発掘現場が出現するとは思いませんでしたが…。

芦屋にはまだまだいろんな地層があるはず。また別の場所を掘りに行かねば。

オススメのお店情報
滴翠美術館
芦屋市山芦屋町13−3

御菓子司 杵屋豊光
芦屋市西山町9−2
営業時間:9時30分~18時30分
休業日:月曜日
パイクとそら
芦屋市東芦屋町5−8
営業時間:10時~18時
休業日:月曜日、水曜日

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